ここが人生のブルペン

ブルペンとは、野球で投手が投球練習をする場所のこと。人生にも大成するまでの準備期間のような時期があって、まるでブルペンのような場があります。まさに今、僕と同じように何かに挑戦しようとしたり、もがいたり、そんな人たちの小さな心の力づけになる。そんなブログ。

中村航さんの本で見つけたのは、夢なのか、目標なのか

こんにちは、野田村悠加です。

本を出したいなとぼんやり思い始めたのは、大学二年生の頃でした。

あまりに衝撃的で、優しくて、大好きな小説。

その一冊の本との出会いから、書くことが趣味や暇つぶしからレベルアップしたのを覚えています。

 

夢のような、目標のような、ある種の使命のような。

 

僕にとって本を出すという未来の確定事項は、今やそんな大仰な立ち位置になっています。

 

同じような想いや感情を世の中に放ちたくなった

児童書ファンタジーから文庫本の小説、営業の本、生き方や考え方の自己啓発、多くの本から感動を与えてきてもらいました。

 

本の向こう側に広がる世界は自分だけのもので、言葉から連想される妄想は自分の脳内だけに存在していて。

まったく自分にはない考え方に感銘を受け、仕事でのチャレンジにつながり。

 

文字を紡ぐだけで、こんなにも人の心を揺さぶれるのか、と感じてきました。

文字が文章になり、表現という武器を携えて物語と化していく。

 

自分で感じた感動が、自分だけのものになるのがもったいない気がして、妄想好きが重なり最初はケータイ小説を書き始めました。

閲覧数が増えるたびに、ああ世界にほんの小さな跡を残している、という感覚を覚えました。

誰が読んだかわからないけれど、読んだ事実は消えない。記憶の端っこにあるかもしれないけれど、そのときその瞬間、僕の紡ぐ文字を目で追っていたことは確実で。

 

それで、自分が感じてきたような感動を覚えてくれたら、面白いだろうなと。

最初はそのような思いだけでした。

きっかけは、何度か書いていますがとある一人の小説家です。

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※初めてもらったサイン。

世界の見方が変わった小説家・中村航さん

『あのとき始まったことのすべて』という作品を読んだとき、世界をこんな風に見ているのか、この人の目には世の中はこう映っているのか、こうやって表現すると目の前にあるように日常を感じ取れるのか、などたくさんの想いが交錯しました。

よかった、感動した、を超えて「なりたい」と思ったきっかけの一冊です。

 

それから中村航さんの本を読み漁ります。

処女作は、『リレキショ』という本でした。

 

理系の大学出身で、エンジニアとして働いていたといいます。

29歳のときに転身して、31歳でデビューされています。

下記はご本人のオフィシャルサイトのプロフィールから抜粋。

2002年『リレキショ』にて第39回文藝賞を受賞しデビュー。続く『夏休み』、『ぐるぐるまわるすべり台』は芥川賞候補となる。ベストセラーとなった『100回泣くこと』ほか、『デビクロくんの恋と魔法』、『トリガール!』等、映像化作品多数。

www.nakamurakou.com

 

また、小説以外にも精力的に活動されています。

アプリゲームがユーザー数全世界2000万人を突破したメディアミックスプロジェクト『BanG Dream!』のストーリー原案・作詞等幅広く手掛けており、若者への影響力も大きい。

bang-dream.com

 

また、2020年3月には小説投稿サイト「ステキブンゲイ」を立ち上げられました。

ちなみに僕の電子書籍は、ここに投稿したことから始まりました。

sutekibungei.com

 

他にも多数プロジェクトを立ち上げては取り組んでいらっしゃって、小説に留まらない活動も注目されている小説家です。

 

独学ですが僕の文章もめちゃくちゃ影響受けています。

本当に好きなんです。その表現と、広がる世界が。

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※二回目のイベントでもらったサイン。

僕にとっては夢なのか、目標なのか

さて、そんな小説の師とも呼べるような中村航さんですが、僕は僕にしか書けないこともあると思っています。

理系でエンジニアのことはわからないけれど、大学まで硬式野球部で活動してきて小説書くぞ、みたいな人間もなかなかいないと思っています。

東京に出てきて、たくさんの人と世界に出会い、人生を変えようと動いているこの経験も僕だけのものです。

 

その想いや経験や可能性を、伝えていきたい。

本を出したいのは、自分だけで完結したくないからです。

 

手に届かない人にも、声が届かない人にも、本だったら届く。

 

大きく人生変えられることができるんだよとか、この世界って思っている以上に面白いことで溢れかえっているんだよとか、そんなきっかけを届けたくて。

 

仕事をしているうちに、より色濃く考えるようになりました。

日々はいつの間にか過ぎて、気づけば次の季節が来ている。

 

本を書くことは、夢なのだろうか。目標、なのだろうか。

 

そう考えていた頃に、新しい道が僕の目の前に現れました。

あと、夢とかそういった考え方や捉え方も、僕の中で変化を迎えます。

道なき道を進むこと、道を拓くこと、創り出すこと

こんにちは、野田村悠加です。

上京してきた僕は作家になるぞというほどの気概もなく、ミュージシャンや芸能界を目指すわけでもなく、普通に仕事を始めます。

 

今日はそんな「仕事」についてのお話。

職業って世の中数えきれないほどあるけれど、大切なのは「仕事観」の方じゃないかなぁって感じてきた、そんな僕の想いです。

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「仕事を頑張る」日々を過ごす

医療ITの分野になるのでしょうか、毎回業界をなんと言ったらいいのかすごく悩むような世界に飛び込み、仕事を頑張り始めます。

 

医者の使う言葉と、ITやネットワークについての知識など、初めは訳の分からない言葉が飛び交い、一年目はまるで外国語を聞いていたような気分で先輩と同行していました。

覚えることで精一杯。

そんな一年目で、とにかくできることあれば全部やります、という感じでした。

 

この頃にやっていたのは「自発的な行動」ですね。

 

決まっていることに対して自分から動く。

大局や流れに乗っかって、言われたこと以外のことをやっていく。

 

それを頑張っていました。

それが仕事だと思っていました。

できることが増えていく。自分一人でも完結できることが増えていく。

それが自分の仕事だと、思っていました。

 

別に、それが間違っているわけではないけれど。

 

仕事という価値観が変わってくる

仕事というと、どういうイメージでしょう?

やらされるもの?面白くないもの?スキルを身につけられるもの?

 

仕事にも価値観があると思っています。

その概念も様々だと思っています。

 

決まったことをやる、大きな流れに乗る。

そういった会社という組織の中の仕事から、3年目になって、いろいろ環境が変わって、知ることも知って、行動し始めると感覚が変わってきました。

 

仕事は喜び。

仕事のご褒美は仕事。

キャパを広げたければキャパオーバーになる。

仕事がいっぱいでもう無理!となったら、仕事をもう一つ増やす

 

初めて聞いたときは訳がわかりませんでした。

そりゃそうです。そんな風に思って仕事をしている人なんて、周りに全然いませんでした。

 

ただ、やってみたら少しずつ変わってきました。

お金のための仕事から、自分の将来や、未来や、なりたい姿に直結する、そんな仕事を捉え始めるようになってきて、数年かかりましたが、いよいよ変わってきました。

 

それは本当にシンプルに、自発性と主体性、という仕事に対する捉え方です。

 

僕の中での仕事とはどういうモノでありたいか

言葉ではよく聞くと思います。

自発性。

主体性。

どちらも自分から動き出すという意味ですね。

 

僕は仕事を主体的に捉えて進めたいと考えています。

流れがあったり、決まっていたりいうのはもちろんですが、本当にやりたいのは、道なき道を進むこと。

道を拓くこと。

新たに創り出すことです。

 

どちらがすごいとかいう話ではないですが、ルーティンのような仕事だけでなく、やっぱり創り出す世界が面白いなぁと。

 

わからなければ、調べる。聞く。

知らなければ、やってみる。

考える。検証する。前進させる。

 

僕もわからないです。前線突っ走ってても、よくわからないことはたくさんあります。

うまくいく保証なんてものはなく、うまくいかせるという信念があるだけで。

うまくいくからやる、では遅いし、古い。

 

0から1を生み出しているんだということを、本当に理解した上で。

掴み取るのではなく、創り出す。

何にもないので、やる。

 

そうやってみんなで創っていければいいなと思うわけです。

 

一生道半ばなのですから。

共に創りましょうよ、って。

 

できあがった仕組みの中に飛び込んでいるようで、常にどうなるかわからない世界を追いかけて、世の中に置いていかれないように、一歩でも先に踏み出せるように、同じラインで頑張っているのです。

 

未来につながっているという保証はない。

つなげるという確信はある。

 

それで仕事は少しでも主体的に取り組めるのではないでしょうか。

 

楽をしたいわけじゃないんです。

思いっきり動き回って、うまくいったり、いかなかったりして、キャパ越えて仕事創り出して、そんな感じで生きていきたい。

自由に。

ときには飲みながら、でもいいんです。

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その同志と、僕ができることを、拡張させる。

 

あなたの想像を超える世界を、僕は共に創りたいのです。

 

未来は明るい!

面積よりも遥かに大きな街に来てしまったと感じた大都市「東京」

こんにちは、野田村悠加です。

いろんなルーツを養ってきた学生時代でしたが、社会人になっていよいよ故郷の滋賀を飛び出します。

 

なんとしても滋賀からは出る。

それだけを決めて就活をしていました。

結果、名古屋本社の会社に入って、研修後の配属先が東京。

 

名古屋と東京、どっちがいい?」

 

一応尋ねられました。

僕は「どっちでもいいです」と返答しました。

そうしたら東京になりました。

 

これが、今思うと本当に幸運なことだったのです。

 

上京は田舎にとったら結構大々的なこと

親族は全員滋賀にいたので、そもそも県を出る人が僕が初でした。

しかも東京。上京ですよ。

そりゃもう、「あの家の長男の子は東京で働いている」ってそれだけで箔が付くような。

 

田舎はそんな感じです。

 

小さい頃の旅行ぐらいで、実際初めてのようかものでした。

品川駅に降り立ったときの驚きは今でも覚えてます。

 

琵琶湖花火大会ぐらいしか、滋賀ではこんなにたくさんの人の姿を見ることはないのです。

 

滋賀の人口の、約10倍。

その人数が、滋賀の面積の6分の1である琵琶湖より小さな東京23区に詰まっている。

 

どこに行っても、人は多いし建物は高いし、綺麗だし広いし。

電車の時刻表がいらないのは衝撃的でした。

 

どうやら、面積以上に広い土地へ来てしまったようでした。

 

※最初はこんな景色の見える近くに住んでいました。


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これほどの人が集まれば、そりゃ文化は形成されるよなと

東京で一番面白かったのは、駅ごとに文化が形成されているところでした。

 

山手線は新橋が職場に近かったのですが、そこから有楽町、東京、神田、秋葉原御徒町、上野……。

渋谷側も、恵比寿、目黒、五反田、大崎、新宿方面だと原宿、代々木、新宿、新大久保、高田馬場……。

 

一駅ごとに、こんなにもカラフルで、まるで別の県かのような違いがあるのは面白いなと感じていました。

 

滋賀はというと、草津南草津がちょっと大きいぐらいで、あとはだいたい平和堂と国道が近くにある感じで、文化が違うなと感じるほどの違いはありません。

 

ただ、休みの日にあちこち一人で出かけていると、どこから湧いて出てるんだという人の波を見て勝手に腑に落ちます。

 

これだけの人が一極集中で集まれば、そりゃ文化の一つぐらい形成されそうだと。

 

こんなにも多種多様な人が驚くほどたくさんいて、山手線どころじゃない幅広い文化が、それぞれの土地に根付いているんだろうなということがわかりました。

 

これは東京が世界からも一目置かれている都市なのがよくわかりました。

名古屋とも、大阪とも全然違います。

 

優劣の問題ではなく、単なる人口の差です。

大阪の延長みたいな感じなのかなと滋賀県民の視点から思っていましたが、本当に全く違います。

 

東京があまりにも圧倒的すぎるのです。

 

これほどのダイバーシティを受け入れられる街は、日本ではおそらく東京以外にはないでしょう。

 

そこで初めて、若いうちに東京に来られてよかったな、と感じ始めるようになってきました。

 

滋賀から出てきてよかったこと

この東京という街を20代前半から体感できたことは非常に貴重な機会だったなと思います。

こんなにも広大な東京という街を体感して、いろんな景色を見て、街並みを感じ、文化や技術に触れ、そしてたくさんの人と出逢いました。

 

偶然の出会いから、久々の出会いまで、形は違えど様々な人との出会いを経験してきました。

 

上京して一番よかったのは「人」なのかもしれません。

 

東京はいろんな人がいるから気をつけてね。

という上京時の常套句を親からいただき、やってきました。

確かにいろんな人がいると思います。

 

ただ僕は、非常に恵まれていたのか、今までの知り合いも、新しくできたつながりも、とてもかけがえがなく大切な人たちばかりです。

 

初めましてでも、別にその場で取って食われるわけじゃないんだから、と何度か経験しているうちにそういう気持ちで臨めるようになってきました。

 

いろんな仕事の話が聞けることが面白かったです。

いろんな過去を持っている人たちと話すことが楽しかったです。

それは会社の仕事とか、引きこもってゲームやアニメとか、それまでの僕の生活では起こり得なかったイベントでした。

 

そして、新しい生き方を学びました。

価値観や考え方がこんなにも違う世界があるんだと痛感し、望み、飛び込み、荒波に揉まれながらも変化していく、そんなきっかけをいただきました。

きっかけについてはまた追々。

まるで小説のような人間ドラマが広がっています。

 

さて、そうして僕は東京という街に染まっていきます。

これからもまだまだ、世界の広大さに驚き続けるでしょう。

だからこそ、まだ今のところは、僕はこの街でたくさんチャレンジし続けることにしています。

 

僕という人間がダイバーシティのほんの一部となって、新たな世界を広げていきます。

僕の表現はサブカルチャーのあれこれが混ざり合ったもの

こんにちは、野田村悠加です。

僕のルーツの話ばかりでしたが、本、野球、ときて最後はとてもポップなもの。

 

サブカルチャーです。

 

範囲の広い言葉ですが、主にゲーム、アニメ、漫画などエンタメのコンテンツを指すことが多いです。

 

ゲームは小学校に入る前からやってましたし、アニメもよく親に見せてもらっていました。

漫画は言わずもがな名探偵コナンから始まり、結構いろんな作品を読んできました。

 

そういった、現実世界以外に広がる世界が大好きでした。

本以外にも、こんなにも広大で計り知れない。

 

ワクワクしますよね。

一つ一つ、大切に向き合ってきました。

サブカルチャーとは思えないほどの、真剣さ。

 

名探偵コナンだけじゃないんですよ

コナンしか知らないと思われがちですが、そんなことはありません。

昔から漫画は好きでした。

今ではWebマンガもめっちゃ読んでます。

 

『怪獣8号』『プロミスシンデレラ』『SPY×FAMILY』『ダンダダン』『よふかしのうた』『ドラフトキング』などなど、週間でやたら読んでます。

完結済みですが『サマータイムレンダ』はほんとに面白かった。

 

また、僕が単行本として全巻持っているシリーズはそんなにたくさんはありませんが、主な作品は以下の感じです。

 

探偵学園Q

 

四月は君の嘘

 

『ひとりぼっちの地球侵略』

 

その他にも、『さよなら私のクラマー』『BLEACH』『スローモーションをもう一度』など途中までですが持ってます。

 

『MAJOR』と『鋼の錬金術師』は友達に借りて全巻読みました。

 

京都にいた頃は、京都国際マンガミュージアムにも足を運びました。ここは天国のような場所でしたね。

京都国際マンガミュージアム

 

かじったぐらいの作品はまだたくさんありますが、次から次へと出る漫画の波を少しずつ少しずつ、追いかけています。

 

家に漫画部屋、みたいなのが作れたら面白そうだなぁ。

 

幼い頃から任天堂信者

続いてゲームですが、随分と幼い頃から触れていました。

 

最初に触れたのはスーパーファミコンです。

スーパーマリオワールドというとんでもない名作から始めました。

スーパーマリオワールド

 

その後ゲームボーイというポータブル機が現れます。

ポケモンの初代である赤から始めました。

妹はピカチュウ版でした。

その後、僕は「赤→銀→サファイアと続きます。

妹はピカチュウ→クリスタル→ルビー」でした。

 

据え置き機もよく遊びました。

Nintendo64スマブラは何なら今でもやります。

ゲームキューブスーパーマリオサンシャインが一番の名作だと思ってます。

Nintendo Switchでリメイク版が出てますね。

スーパーマリオ 3Dコレクション:スーパーマリオサンシャイン | Nintendo Switch | 任天堂

 

人生で最も面白かったゲームは、Wiiゼノブレイドです。

これもSwitchでリメイク版が出てます。

めちゃくちゃハマりました。

 

Nintendo Switchも持っているので、自由に時間が使えるようになったら遊び倒してやろうと考えてます。

 

ゼルダの伝説シリーズも好きでしたね。

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ゲームを通して、いろんな感情を覚えたり、画面の向こうに広がるもう一つの世界の光景を見たり、そういったある意味仮想空間に没入するのが、とても好きだったのです。

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アニメはインスピレーションの基になることが多かった

高校二年生の終わり頃に、『とある科学の超電磁砲』というアニメを観たところから、僕の深夜アニメは始まります。

 

ちょうど『あの日見た花の名前を僕たちはまだ知らない』『花咲くいろは』『アイドルマスター』など有名どころが放送されていた2011年頃から、毎クール観たいのを全部の中から抜粋して、結構観てました。

 

非常に、小説に対するインスピレーションとなりました。

特に京都アニメーションの作品。

最も好きなアニメは『氷菓』です。

www.kyotoanimation.co.jp

 

『響け!ユーフォニアム』もすっごく好き。

anime-eupho.com

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これは最終回の先行上映回に当選した時の写真。

 

物語がすごいだけじゃなく、演出とか、表現とか、作品として観るとたくさんの楽しみ方が見つかる。

 

こう言うんだ、こう表しているんだ、こう魅せるんだ、といつも感銘を受けながら、素晴らしい作品に浸っていました。

たまには頭空っぽで観られるようなアニメも観ていました。

 

とにかく、こうした作品の数々は、僕に大小様々な影響を及ぼしています。

僕の表現は小説と、あとはこれらサブカルチャーのあれこれが混ざり合ったものと言えるでしょう。

 

これからも、こうした物語や作品に埋もれながら生きていきます。

そして、いずれ自分で心を揺さぶる作品を創り上げるのです。

 

乞うご期待。

 

本気でやってきたからこそわかる境地に、今も昔も、そしてこれからも

こんにちは、野田村悠加です。

14年間、野球を続けてきました。

これもまた、僕のルーツの中の大きな一つです。

 

結構長く継続してきたなと思います。

人生の約半分。

割と野球について知ること、わかることも増えてきました。

 

それなりに継続してきたという矜持があります。

知識だけでなく体感でいろいろ知っているぞという自信もあります。

 

ただ、世界は広い。

野球の世界も然りで、14年間続けていても、まだまだ知らない感覚や当たり前が存在しています。

 

僕は野球を通じて、どういう人生を辿ってきたのか。

野球から、今にもつながることをたくさん学んでいます。

 

左打者に転向した中学生

右投げ右打ちで、小学二年生の頃から野球を始めました。

当時の憧れは松井秀喜選手。

 

だからというわけではなかったのですが、「足を生かせるしタイプ的に左打ちにしたら?」と先輩に言われて右から左に転向します。

奇しくも松井秀喜氏と同じ右投げ左打ち。

 

ホームランバッターではなかったですが、全く新しい感覚で練習が始まりました。

右打ちから左打ちに変えるなんてことも、自分だけだったら思いつきもしなかったでしょう。

当時は一生懸命素振りを繰り返しました。

 

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これは今年3月の時の写真。草野球ですが。

結局学生時代、右打ちは6年間で、左打ちが8年間でした。

完全に自分の持っているバッティングの感覚は左打ちです。右でもちょっとは打てますが、やはり繊細な身体の中の動きまでトレースできません。

 

ただ中学生の頃は、変えたばかりの左打ちの感覚をそれほど掴みきれずに引退します。

高校でも左でチャレンジだ!と、高校野球こそ左打ちの感覚を身につけようと意気込んで、いざ高校野球の世界に飛び込みました。

 

人生で最も練習した高校野球

人生で二度と繰り返したくない日々は高校生の頃です。断言できる。

非常に頑張りました。

 

18時完全下校だったので、そのまま同期の誰よりも早くさっさと着替えて先に帰り、ご飯を食べて風呂に入って21時頃から自主練で素振りを始めます。

そのまま、長いときは24時までやることも多々ありました。

 

ひとつ上の学年の主将がやたらと練習する人だったので、その人に負けたくないという思いで頑張っていました。

 

あまり強豪校でもなかったのでそこそこの高校相手としか試合もなく、この辺りから割と打てるようになってきて、打つという感覚も捉えられるようになってきました。

 

そして高校三年生になる直前に、いろいろ試行錯誤していた僕は「振り子打法」に行き着きます。(NPB時代のイチローのような打ち方です。)

 

ここで、ようやく左打ちの感覚の一端を掴んだ気がしました。

左打ちに変えて、5年目の出来事です。

 

右は開く力で打つ。左は閉じる力で打つ。

振り子打法は感覚を追い求めたらその形になっただけでしたが、ハマった感覚がわかったのは僕の野球のレベルがまた一つ上がった瞬間のように思いました。

 

やっぱり、どれも感覚を掴むには数年の歳月をかける必要があると思います。

 

そして、最後の夏。

試合の一週間前に39度の熱を出して調子を崩し、必死で感覚を取り戻そうとやたらと一人でバッティング練習を詰め込んでいました。

 

結果は2試合通して7打数0安打。

熱のせいにはしたくなかったですが、これで野球を辞めるのはどうにもできませんでした。

 

「大学でも部活で野球、続けるの?」

 

引退すると、部員の間でレギュラーメンバーにこの話題が広がります。

 

硬式野球部で続けることを選択したのは、同期で僕一人だけでした。

 

大学野球でそれまでの野球観がこんなにも変わるなんて

大学の硬式野球部に入部すると、部員の半分は甲子園経験者というとんでもない場所でした。

当時の主将は、現読売ジャイアンツ小林誠司選手でした。

 

npb.jp

 

こんなキャッチャーがいるんだ、と初めて見たときは衝撃を受けました。

僕は強豪校で揉まれてきたわけでも、レベルの高い野球に触れてきたわけでもなかったので、周りのすごさに最初はひたすら圧倒されます。

 

一回生は、ずっとグラウンドにいます。

部員数が多かったのでAとBに分かれ、午前と午後の二部制の練習がありますが、一回生は朝グラウンド整備から、午後の練習が終わったあとの先輩たちの自主練習が終わるまで帰れません。

 

バッティング練習をずーっと続ける先輩たちに対して、バッティングピッチャーをやったり、外野でボール拾いをしたり、バッティングマシンにボールを入れたり、空いている時間で自分の練習(素振りやティーバッティングやノックなど)をやったりしていました。

 

最も遅くまで練習していたのは、小林誠司さんでした。

21時半にはグラウンドのライトが消えるので、長くてもその時間までですが、次の日も朝8時前にはグラウンド整備で来るのです。

 

当時の通学時間は1時間30分ちょっとかかっていたので、なかなかハードな生活をしていたなと思います。

二回生から楽になり、結局途中で学生コーチという練習の補助をする役割を悩んだ末に選択して、またハードな生活に戻りました。好きなのかもしれません。

 

選手を辞めて裏方に入ったのは、甲子園ボーイばかりで試合に出るのは難しいと感じたからです。

学生コーチなら、試合前ノックと三塁ランナーコーチでグラウンド内に立てる。

その大学野球の目標を、形は違えど叶えたかったからです。

 

ノックなんて打ったことなかったですが、一生懸命練習しました。

一番難しいのは内野ゴロです。これは経験しないとわからない感覚です。

 

さて、おかげでレギュラーメンバーとの交流が増えました。

野球観がガラッと変わります。

 

高校の頃の自分がいかに野球を知らなかったかということや、強豪校は全然次元の違うところで野球をしていたことがわかりました。

 

10年以上やっていても、まだまだ自分のレベルの低さ、野球の奥深さを痛感することばかり。

 

周りの人の影響で自分自身がこんなにも引き上げられることを体感したのは、大学野球まで継続していたからでした。

 

かけがえのない時間を過ごしました。

最後の秋の大会では、ナイターの同立戦に友達をたくさん呼ぶことができました。

 

野球で学んだことは、本当にたくさんあります。

 

過程と結果をどちらが大事かという問いかけには、迷いなく結果だと答えるようになりました。

人の成功を喜べる自分がいることを、裏方に入って初めて気づきました。

応援してくれている人がこんなにもたくさんいることを知りました。

「目配り気配り」「野球やっているときは人を変えろ」という高校の顧問の先生の教えは今でも忘れません。

グローブやバットを跨いだことはありません。道具を大事にしろ、とずっと教わってきました。

グラウンドに入るときと出るときは挨拶をします。これから使うこと、怪我がないようにという想いで入って、怪我なく過ごせたことに感謝して出る。

そういったあらゆることに対する感謝力を学びました。

 

野球はサッカーやバスケ、バトミントンなど他だいたいのスポーツと違って、ボールではなく人が点数になります。

人がホームに帰ってきて一点なのです。

 

14年間、野球をやってきました。

 

野球は人を学べるスポーツだと思います。

 

これは今後何をするにあたっても、僕の土台の一つとなる想いや教訓、学びになります。

 

「野球をやってきたことで飯が食えることはあると思う

野球で飯は食えないかもしれないけど」

 


www.youtube.com

 

本気でやってきたからこそわかる境地に、今も昔も、そしてこれからも。

 

野球の話は長くなるので、また随所に書いていこうと思います。

僕にとっての本とは、物語とは

こんにちは、野田村悠加です。

生まれてこの方、有象無象をトータルすると数百冊の本を読んできました。

僕のルーツを捉えるには必須の項目、本。

 

デルトラ・クエスト』という児童書ファンタジーから入った僕ですが、時代によって読む本の種類は変わります。

 

小学生の頃、中学生、高校生、大学生、そして社会人。

それぞれの時代で大好きな本があります。

僕という人間を語るうえで外せない「本」という部分を切り取って、その変遷を辿りながらも、時代別におすすめの本を紹介しようと思います。

 

始まりはファンタジー冒険譚

「長男には本を読むようになってほしい」

という母親の思いから、一冊の本を手渡されます。

 

デルトラ・クエスト

​ここから僕の本人生が始まりました。

 

 

キラキラした綺麗な表紙だなぁ、ぐらいで、特に読んでみたいとか、興味があるとかありませんでした。
読書体験というのを、教科書以外に初めてやってみたのです。

 

半分ぐらいまで、よくわかりませんでした。

ただ、半分を越えた辺りからページをめくる手が早まります。

脳内に世界が広がりました。

ゲームボーイカラーやアニメの向こうにある、視覚的な世界ぐらいしか現実以外に知らなかった僕に、初めて文字を世界に変換する力が身についた瞬間でした。

 

このシリーズは長きに渡って続き、三シリーズ計19冊で大団円を迎えます。

ファンタジー冒険譚だったので、到底現実にはあり得ないような舞台が広がり、起こり得ないようなことが起き、勇気と挑戦にハラハラしながら当時小学生だった僕は読み進めました。

 

当時好きだったのは、『ダレン・シャン』シリーズ、『デモナータ』シリーズ、『バーティミアス』シリーズ、です。

 

 

 

懐かしい。

 

特に中学の頃に読んだ『ドラゴンラージャ』シリーズは、とんでもなくハマりました。
めちゃくちゃ大好きなシリーズです。

 

韓国のイ・ヨンドという方が著者なのですが、その和訳が2005年に日本でも発売されました。

ユーモア溢れる会話やキャラクター、真面目な話から、くすっと笑いが出るほどの面白さ、そして深い深い登場人物たちの哲学。

 

 

その考え方にひどく感銘を受けました。
たくさん印象的な言葉を浴びました。
とても素敵なストーリーでした。

 

そうして、僕の高校生ぐらいまでの期間はファンタジーを中心とした空想世界に終始します。

妄想が好きだったのかもしれません。

見たことのない世界や、聞いたことない言葉、感じたことのない想い、それらがこの世の中で無数に創作されていて、書き手の数だけ世界が広がっている。

 

空想の世界だからこそ書き出せるその表現に、僕はすっかり虜になっていました。

 

運命の一冊との出逢い

さて、大学生になると、とうとう児童書を飛び出して文庫本に手が伸び始めます。

いくつか読み始めたところで、大学二回生の頃に自分自身を大きく変えるきっかけの一冊と出逢います。

 

まるで、自分が過去体験したような日常を、特別な出来事も起こらないのにも関わらず、こんなにも豊かに表現していて、綺麗で、心を揺さぶられる。

 

児童書ファンタジーとは真逆の、日常や恋愛を描く小説家の中村航さんの作品を、片っ端から読み進めます。

なんでそんなに心がわかるのだろうとか、感じたことのない思いかもしれないけれどどうしてこんなにも共感できるのだろうとか、そんな描写だらけで。

 

「すごい」を通り越えて「なりたい」と思ったきっかけの人でした。

この人のこの作品があったから、僕は小説を書こう、と決めたのです。

 

他にも、いろんな傑作を読みました。

当時は大学までの通学に1時間以上かけていたので、その間に読んだりしていると月に3冊ぐらいのペースで読み進めていました。

 

特にハマったのは「野崎まど」という気鋭の作家さんです。

デビュー作の『アムリタ』は表紙からじゃ想像できない物語の展開が待っています。

 

大どんでん返しを二回起こすのがこの作家さんのお家芸で、わかっていても毎回驚愕し続ける。

全くタイトルは違うけれど、シリーズ化のように次回作が続く。

 

とんでもない物語を何作も経験して、最後の締めの本がこちら。

 

『2』

なんだこのタイトルは、と。

この本を読みたいがためにシリーズを一気に読みました。

 

この「2」の意味も、そして完全に想像もできない物語を、すべてがつながる超体験を、このシリーズで体感できます。

 

ちなみに、このSFもめちゃくちゃ面白かったです。

 

また、オリジナル劇場アニメやTVアニメシリーズの脚本やシリーズ構成を務められていました。

hello-world-movie.com

 

非常に多彩な才能をお持ちの方です。

 

僕も実は、某イベントで直接お見かけしたことがあるのですが、ちょっと新しい観点のユーモアのある物静かな方でした。

こんなにも世の中にワクワクの種を蒔ける作家という仕事は、面白いだろうなぁ。

 

好きな小説を通して、そう感じていたのでした。

 

本は僕の一部となって

こうした本と共に生きてきたので、僕自身を語るうえで外せない項目です。

 

社会人になってからは勉強したほうがいいだろうなと思って、営業の本や業界の本、さらに視座を上げて自己啓発や今後の人生に関すること、などたくさんのジャンルに手を出します。

 

ただ、僕は小説人間なのでルーツはすべてそこにあります。

 

本は、読んで良かった面白かっただけでなく、まるで僕自身の一部になるかのように脳みそのどこかに格納されていきます。

 

本を読み終わったり、映画を観終わったり、人から感じ取ったあとの物語はどこにいくのでしょうか。

 

きっと心のどこかに残っていて、知らず識らずのうちに自分に影響を与えているかもしれません。

 

結局は、物語が心を動かすのです。

と、信じて。

 

何より自分自身の人生という物語を拡張させ、どこかの誰かの心を動かせる範囲を広げ続けます。

僕にとって「書く」ことは

こんにちは、野田村悠加です。

なぜ、僕は凝りもせずにこうして小説も、ブログも、日々の日記も、SNSも、あらゆるツールを用いて「書く」という行為を続けているのでしょう。

 

書くことにはどんな意味があるのでしょう。

人それぞれだとは思いますが。

 

物書きの僕にとって書くことはどういうことかと問われると、答えは非常にシンプルです。

 

脳の一部を吐き出すこと。

 

どういうこっちゃ、ですよね。

併せて、このブログを書く理由について触れようと思います。

 

いろんな「書く」がある

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そもそも、書く、ということはすべて同じではありません。

小説を書く、ブログを書く、記事を書く、Twitterで呟く……。

 

すべてそれぞれの「書く」という感覚があり、得意不得意もあります。

 

僕は小説人間でしたので、最初は物語しか書けませんでした。それも、長編の。

 

中学二年生の頃、ケータイ小説という文化が流行りました。

当時ガラケーを持って京都の学校へ通っていた僕は、電車の時間の暇つぶしとして書き始めます。

 

それから今まで、十数年続けていますが、ご縁があってブログや記事を勉強し始めたとき、全然感覚が違うことに気が付きます。

 

同じ1,000字でも、違う。

うまく書き進められないし、文章もどこかぎこちない。

 

不思議でした。書けるはずなのに、筆が進まない。

書いては修正して、アドバイスをいただく度に修正を繰り返す。

そんな修行のような期間を経験しました。

 

今は、少しずつその媒体によっての違いを認識して、日々精進しながら書き進めています。

このように、実は「書く」といっても様々で、それぞれの感覚を身につけていく作業の積み重ねなのです。

 

書くことは脳の一部を吐き出すこと

僕にとっての「書く」は、まるで脳の一部を吐き出しているような、自分自身の考えをまとめてというより、思考をそのまま貼り付けているような、そんな行為です。

 

Twitterは140字だからこそ伝えられることがあります。

Instagramは写真がたくさん載せられるからこそできることもあります。

記事は伝えたいことと着地を明確にした広告の文章になるし、小説は僕の頭の中にある世界をできるだけ精密に言葉に置き換えているだけ。

 

そしてブログは、僕自身についてをじっくり書ける。

 

起こった出来事を呟いたり、撮った写真を載せたり、そういった刹那的なものではなくて。

小説のように架空の世界の話でもない。

 

今や過去の僕自身や、これからの僕の想いを、最も適切に残せるのがブログなんじゃないかなと思って。

 

いくつも同じことを書いているのではありません。

それぞれのツールで、それぞれの僕を出しているだけなのです。

 

絵を描いていたら絵画や漫画、アニメ制作に手を出していたかもしれません。

楽器をやっていたらバンドか吹奏楽の道に進んでいたかもしれません。

声に自信があったら、歌手や声優にもチャレンジしていたかもしれません。

 

全部、自分を出している人たちばかりです。

全部、自分を表現している人たちです。

 

僕にとって「書く」ことは、脳内を吐き出すこと、自分の一部を表現していること、です。

 

物書きとか言いながら。

パラレルワーカーなんて格好つけながら。

 

結局は、表現者として生きているのです。

 

『ここが人生のブルペン

ブログのタイトル名にしました。変わってますよね。

 

大成する人々はきっと、ブルペンで来たる時に備えて練習と準備に励んでいるような、そんな期間があったのではないでしょうか。

それぞれの人生の準備期間に、少しでも寄り添えるように。

少しでも良い状態で、試合という人生の本番の舞台に送り出せるように。

 

そして、これから準備期間を迎えるであろう人たちにも。

 

地道な努力を続ける挑戦者の、心の力づけになるようなブログにします。

 

さて、次はそんな僕という人間を、もう少し分解してみます。