僕にとって「書く」ことは
こんにちは、野田村悠加です。
なぜ、僕は凝りもせずにこうして小説も、ブログも、日々の日記も、SNSも、あらゆるツールを用いて「書く」という行為を続けているのでしょう。
書くことにはどんな意味があるのでしょう。
人それぞれだとは思いますが。
物書きの僕にとって書くことはどういうことかと問われると、答えは非常にシンプルです。
脳の一部を吐き出すこと。
どういうこっちゃ、ですよね。
併せて、このブログを書く理由について触れようと思います。
いろんな「書く」がある
そもそも、書く、ということはすべて同じではありません。
小説を書く、ブログを書く、記事を書く、Twitterで呟く……。
すべてそれぞれの「書く」という感覚があり、得意不得意もあります。
僕は小説人間でしたので、最初は物語しか書けませんでした。それも、長編の。
中学二年生の頃、ケータイ小説という文化が流行りました。
当時ガラケーを持って京都の学校へ通っていた僕は、電車の時間の暇つぶしとして書き始めます。
それから今まで、十数年続けていますが、ご縁があってブログや記事を勉強し始めたとき、全然感覚が違うことに気が付きます。
同じ1,000字でも、違う。
うまく書き進められないし、文章もどこかぎこちない。
不思議でした。書けるはずなのに、筆が進まない。
書いては修正して、アドバイスをいただく度に修正を繰り返す。
そんな修行のような期間を経験しました。
今は、少しずつその媒体によっての違いを認識して、日々精進しながら書き進めています。
このように、実は「書く」といっても様々で、それぞれの感覚を身につけていく作業の積み重ねなのです。
書くことは脳の一部を吐き出すこと
僕にとっての「書く」は、まるで脳の一部を吐き出しているような、自分自身の考えをまとめてというより、思考をそのまま貼り付けているような、そんな行為です。
Twitterは140字だからこそ伝えられることがあります。
Instagramは写真がたくさん載せられるからこそできることもあります。
記事は伝えたいことと着地を明確にした広告の文章になるし、小説は僕の頭の中にある世界をできるだけ精密に言葉に置き換えているだけ。
そしてブログは、僕自身についてをじっくり書ける。
起こった出来事を呟いたり、撮った写真を載せたり、そういった刹那的なものではなくて。
小説のように架空の世界の話でもない。
今や過去の僕自身や、これからの僕の想いを、最も適切に残せるのがブログなんじゃないかなと思って。
いくつも同じことを書いているのではありません。
それぞれのツールで、それぞれの僕を出しているだけなのです。
絵を描いていたら絵画や漫画、アニメ制作に手を出していたかもしれません。
楽器をやっていたらバンドか吹奏楽の道に進んでいたかもしれません。
声に自信があったら、歌手や声優にもチャレンジしていたかもしれません。
全部、自分を出している人たちばかりです。
全部、自分を表現している人たちです。
僕にとって「書く」ことは、脳内を吐き出すこと、自分の一部を表現していること、です。
物書きとか言いながら。
パラレルワーカーなんて格好つけながら。
結局は、「表現者」として生きているのです。
『ここが人生のブルペン』
ブログのタイトル名にしました。変わってますよね。
大成する人々はきっと、ブルペンで来たる時に備えて練習と準備に励んでいるような、そんな期間があったのではないでしょうか。
それぞれの人生の準備期間に、少しでも寄り添えるように。
少しでも良い状態で、試合という人生の本番の舞台に送り出せるように。
そして、これから準備期間を迎えるであろう人たちにも。
地道な努力を続ける挑戦者の、心の力づけになるようなブログにします。
さて、次はそんな僕という人間を、もう少し分解してみます。