ここが人生のブルペン

ブルペンとは、野球で投手が投球練習をする場所のこと。人生にも大成するまでの準備期間のような時期があって、まるでブルペンのような場があります。まさに今、僕と同じように何かに挑戦しようとしたり、もがいたり、そんな人たちの小さな心の力づけになる。そんなブログ。

本気でやってきたからこそわかる境地に、今も昔も、そしてこれからも

こんにちは、野田村悠加です。

14年間、野球を続けてきました。

これもまた、僕のルーツの中の大きな一つです。

 

結構長く継続してきたなと思います。

人生の約半分。

割と野球について知ること、わかることも増えてきました。

 

それなりに継続してきたという矜持があります。

知識だけでなく体感でいろいろ知っているぞという自信もあります。

 

ただ、世界は広い。

野球の世界も然りで、14年間続けていても、まだまだ知らない感覚や当たり前が存在しています。

 

僕は野球を通じて、どういう人生を辿ってきたのか。

野球から、今にもつながることをたくさん学んでいます。

 

左打者に転向した中学生

右投げ右打ちで、小学二年生の頃から野球を始めました。

当時の憧れは松井秀喜選手。

 

だからというわけではなかったのですが、「足を生かせるしタイプ的に左打ちにしたら?」と先輩に言われて右から左に転向します。

奇しくも松井秀喜氏と同じ右投げ左打ち。

 

ホームランバッターではなかったですが、全く新しい感覚で練習が始まりました。

右打ちから左打ちに変えるなんてことも、自分だけだったら思いつきもしなかったでしょう。

当時は一生懸命素振りを繰り返しました。

 

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これは今年3月の時の写真。草野球ですが。

結局学生時代、右打ちは6年間で、左打ちが8年間でした。

完全に自分の持っているバッティングの感覚は左打ちです。右でもちょっとは打てますが、やはり繊細な身体の中の動きまでトレースできません。

 

ただ中学生の頃は、変えたばかりの左打ちの感覚をそれほど掴みきれずに引退します。

高校でも左でチャレンジだ!と、高校野球こそ左打ちの感覚を身につけようと意気込んで、いざ高校野球の世界に飛び込みました。

 

人生で最も練習した高校野球

人生で二度と繰り返したくない日々は高校生の頃です。断言できる。

非常に頑張りました。

 

18時完全下校だったので、そのまま同期の誰よりも早くさっさと着替えて先に帰り、ご飯を食べて風呂に入って21時頃から自主練で素振りを始めます。

そのまま、長いときは24時までやることも多々ありました。

 

ひとつ上の学年の主将がやたらと練習する人だったので、その人に負けたくないという思いで頑張っていました。

 

あまり強豪校でもなかったのでそこそこの高校相手としか試合もなく、この辺りから割と打てるようになってきて、打つという感覚も捉えられるようになってきました。

 

そして高校三年生になる直前に、いろいろ試行錯誤していた僕は「振り子打法」に行き着きます。(NPB時代のイチローのような打ち方です。)

 

ここで、ようやく左打ちの感覚の一端を掴んだ気がしました。

左打ちに変えて、5年目の出来事です。

 

右は開く力で打つ。左は閉じる力で打つ。

振り子打法は感覚を追い求めたらその形になっただけでしたが、ハマった感覚がわかったのは僕の野球のレベルがまた一つ上がった瞬間のように思いました。

 

やっぱり、どれも感覚を掴むには数年の歳月をかける必要があると思います。

 

そして、最後の夏。

試合の一週間前に39度の熱を出して調子を崩し、必死で感覚を取り戻そうとやたらと一人でバッティング練習を詰め込んでいました。

 

結果は2試合通して7打数0安打。

熱のせいにはしたくなかったですが、これで野球を辞めるのはどうにもできませんでした。

 

「大学でも部活で野球、続けるの?」

 

引退すると、部員の間でレギュラーメンバーにこの話題が広がります。

 

硬式野球部で続けることを選択したのは、同期で僕一人だけでした。

 

大学野球でそれまでの野球観がこんなにも変わるなんて

大学の硬式野球部に入部すると、部員の半分は甲子園経験者というとんでもない場所でした。

当時の主将は、現読売ジャイアンツ小林誠司選手でした。

 

npb.jp

 

こんなキャッチャーがいるんだ、と初めて見たときは衝撃を受けました。

僕は強豪校で揉まれてきたわけでも、レベルの高い野球に触れてきたわけでもなかったので、周りのすごさに最初はひたすら圧倒されます。

 

一回生は、ずっとグラウンドにいます。

部員数が多かったのでAとBに分かれ、午前と午後の二部制の練習がありますが、一回生は朝グラウンド整備から、午後の練習が終わったあとの先輩たちの自主練習が終わるまで帰れません。

 

バッティング練習をずーっと続ける先輩たちに対して、バッティングピッチャーをやったり、外野でボール拾いをしたり、バッティングマシンにボールを入れたり、空いている時間で自分の練習(素振りやティーバッティングやノックなど)をやったりしていました。

 

最も遅くまで練習していたのは、小林誠司さんでした。

21時半にはグラウンドのライトが消えるので、長くてもその時間までですが、次の日も朝8時前にはグラウンド整備で来るのです。

 

当時の通学時間は1時間30分ちょっとかかっていたので、なかなかハードな生活をしていたなと思います。

二回生から楽になり、結局途中で学生コーチという練習の補助をする役割を悩んだ末に選択して、またハードな生活に戻りました。好きなのかもしれません。

 

選手を辞めて裏方に入ったのは、甲子園ボーイばかりで試合に出るのは難しいと感じたからです。

学生コーチなら、試合前ノックと三塁ランナーコーチでグラウンド内に立てる。

その大学野球の目標を、形は違えど叶えたかったからです。

 

ノックなんて打ったことなかったですが、一生懸命練習しました。

一番難しいのは内野ゴロです。これは経験しないとわからない感覚です。

 

さて、おかげでレギュラーメンバーとの交流が増えました。

野球観がガラッと変わります。

 

高校の頃の自分がいかに野球を知らなかったかということや、強豪校は全然次元の違うところで野球をしていたことがわかりました。

 

10年以上やっていても、まだまだ自分のレベルの低さ、野球の奥深さを痛感することばかり。

 

周りの人の影響で自分自身がこんなにも引き上げられることを体感したのは、大学野球まで継続していたからでした。

 

かけがえのない時間を過ごしました。

最後の秋の大会では、ナイターの同立戦に友達をたくさん呼ぶことができました。

 

野球で学んだことは、本当にたくさんあります。

 

過程と結果をどちらが大事かという問いかけには、迷いなく結果だと答えるようになりました。

人の成功を喜べる自分がいることを、裏方に入って初めて気づきました。

応援してくれている人がこんなにもたくさんいることを知りました。

「目配り気配り」「野球やっているときは人を変えろ」という高校の顧問の先生の教えは今でも忘れません。

グローブやバットを跨いだことはありません。道具を大事にしろ、とずっと教わってきました。

グラウンドに入るときと出るときは挨拶をします。これから使うこと、怪我がないようにという想いで入って、怪我なく過ごせたことに感謝して出る。

そういったあらゆることに対する感謝力を学びました。

 

野球はサッカーやバスケ、バトミントンなど他だいたいのスポーツと違って、ボールではなく人が点数になります。

人がホームに帰ってきて一点なのです。

 

14年間、野球をやってきました。

 

野球は人を学べるスポーツだと思います。

 

これは今後何をするにあたっても、僕の土台の一つとなる想いや教訓、学びになります。

 

「野球をやってきたことで飯が食えることはあると思う

野球で飯は食えないかもしれないけど」

 


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本気でやってきたからこそわかる境地に、今も昔も、そしてこれからも。

 

野球の話は長くなるので、また随所に書いていこうと思います。

僕にとっての本とは、物語とは

こんにちは、野田村悠加です。

生まれてこの方、有象無象をトータルすると数百冊の本を読んできました。

僕のルーツを捉えるには必須の項目、本。

 

デルトラ・クエスト』という児童書ファンタジーから入った僕ですが、時代によって読む本の種類は変わります。

 

小学生の頃、中学生、高校生、大学生、そして社会人。

それぞれの時代で大好きな本があります。

僕という人間を語るうえで外せない「本」という部分を切り取って、その変遷を辿りながらも、時代別におすすめの本を紹介しようと思います。

 

始まりはファンタジー冒険譚

「長男には本を読むようになってほしい」

という母親の思いから、一冊の本を手渡されます。

 

デルトラ・クエスト

​ここから僕の本人生が始まりました。

 

 

キラキラした綺麗な表紙だなぁ、ぐらいで、特に読んでみたいとか、興味があるとかありませんでした。
読書体験というのを、教科書以外に初めてやってみたのです。

 

半分ぐらいまで、よくわかりませんでした。

ただ、半分を越えた辺りからページをめくる手が早まります。

脳内に世界が広がりました。

ゲームボーイカラーやアニメの向こうにある、視覚的な世界ぐらいしか現実以外に知らなかった僕に、初めて文字を世界に変換する力が身についた瞬間でした。

 

このシリーズは長きに渡って続き、三シリーズ計19冊で大団円を迎えます。

ファンタジー冒険譚だったので、到底現実にはあり得ないような舞台が広がり、起こり得ないようなことが起き、勇気と挑戦にハラハラしながら当時小学生だった僕は読み進めました。

 

当時好きだったのは、『ダレン・シャン』シリーズ、『デモナータ』シリーズ、『バーティミアス』シリーズ、です。

 

 

 

懐かしい。

 

特に中学の頃に読んだ『ドラゴンラージャ』シリーズは、とんでもなくハマりました。
めちゃくちゃ大好きなシリーズです。

 

韓国のイ・ヨンドという方が著者なのですが、その和訳が2005年に日本でも発売されました。

ユーモア溢れる会話やキャラクター、真面目な話から、くすっと笑いが出るほどの面白さ、そして深い深い登場人物たちの哲学。

 

 

その考え方にひどく感銘を受けました。
たくさん印象的な言葉を浴びました。
とても素敵なストーリーでした。

 

そうして、僕の高校生ぐらいまでの期間はファンタジーを中心とした空想世界に終始します。

妄想が好きだったのかもしれません。

見たことのない世界や、聞いたことない言葉、感じたことのない想い、それらがこの世の中で無数に創作されていて、書き手の数だけ世界が広がっている。

 

空想の世界だからこそ書き出せるその表現に、僕はすっかり虜になっていました。

 

運命の一冊との出逢い

さて、大学生になると、とうとう児童書を飛び出して文庫本に手が伸び始めます。

いくつか読み始めたところで、大学二回生の頃に自分自身を大きく変えるきっかけの一冊と出逢います。

 

まるで、自分が過去体験したような日常を、特別な出来事も起こらないのにも関わらず、こんなにも豊かに表現していて、綺麗で、心を揺さぶられる。

 

児童書ファンタジーとは真逆の、日常や恋愛を描く小説家の中村航さんの作品を、片っ端から読み進めます。

なんでそんなに心がわかるのだろうとか、感じたことのない思いかもしれないけれどどうしてこんなにも共感できるのだろうとか、そんな描写だらけで。

 

「すごい」を通り越えて「なりたい」と思ったきっかけの人でした。

この人のこの作品があったから、僕は小説を書こう、と決めたのです。

 

他にも、いろんな傑作を読みました。

当時は大学までの通学に1時間以上かけていたので、その間に読んだりしていると月に3冊ぐらいのペースで読み進めていました。

 

特にハマったのは「野崎まど」という気鋭の作家さんです。

デビュー作の『アムリタ』は表紙からじゃ想像できない物語の展開が待っています。

 

大どんでん返しを二回起こすのがこの作家さんのお家芸で、わかっていても毎回驚愕し続ける。

全くタイトルは違うけれど、シリーズ化のように次回作が続く。

 

とんでもない物語を何作も経験して、最後の締めの本がこちら。

 

『2』

なんだこのタイトルは、と。

この本を読みたいがためにシリーズを一気に読みました。

 

この「2」の意味も、そして完全に想像もできない物語を、すべてがつながる超体験を、このシリーズで体感できます。

 

ちなみに、このSFもめちゃくちゃ面白かったです。

 

また、オリジナル劇場アニメやTVアニメシリーズの脚本やシリーズ構成を務められていました。

hello-world-movie.com

 

非常に多彩な才能をお持ちの方です。

 

僕も実は、某イベントで直接お見かけしたことがあるのですが、ちょっと新しい観点のユーモアのある物静かな方でした。

こんなにも世の中にワクワクの種を蒔ける作家という仕事は、面白いだろうなぁ。

 

好きな小説を通して、そう感じていたのでした。

 

本は僕の一部となって

こうした本と共に生きてきたので、僕自身を語るうえで外せない項目です。

 

社会人になってからは勉強したほうがいいだろうなと思って、営業の本や業界の本、さらに視座を上げて自己啓発や今後の人生に関すること、などたくさんのジャンルに手を出します。

 

ただ、僕は小説人間なのでルーツはすべてそこにあります。

 

本は、読んで良かった面白かっただけでなく、まるで僕自身の一部になるかのように脳みそのどこかに格納されていきます。

 

本を読み終わったり、映画を観終わったり、人から感じ取ったあとの物語はどこにいくのでしょうか。

 

きっと心のどこかに残っていて、知らず識らずのうちに自分に影響を与えているかもしれません。

 

結局は、物語が心を動かすのです。

と、信じて。

 

何より自分自身の人生という物語を拡張させ、どこかの誰かの心を動かせる範囲を広げ続けます。

僕にとって「書く」ことは

こんにちは、野田村悠加です。

なぜ、僕は凝りもせずにこうして小説も、ブログも、日々の日記も、SNSも、あらゆるツールを用いて「書く」という行為を続けているのでしょう。

 

書くことにはどんな意味があるのでしょう。

人それぞれだとは思いますが。

 

物書きの僕にとって書くことはどういうことかと問われると、答えは非常にシンプルです。

 

脳の一部を吐き出すこと。

 

どういうこっちゃ、ですよね。

併せて、このブログを書く理由について触れようと思います。

 

いろんな「書く」がある

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そもそも、書く、ということはすべて同じではありません。

小説を書く、ブログを書く、記事を書く、Twitterで呟く……。

 

すべてそれぞれの「書く」という感覚があり、得意不得意もあります。

 

僕は小説人間でしたので、最初は物語しか書けませんでした。それも、長編の。

 

中学二年生の頃、ケータイ小説という文化が流行りました。

当時ガラケーを持って京都の学校へ通っていた僕は、電車の時間の暇つぶしとして書き始めます。

 

それから今まで、十数年続けていますが、ご縁があってブログや記事を勉強し始めたとき、全然感覚が違うことに気が付きます。

 

同じ1,000字でも、違う。

うまく書き進められないし、文章もどこかぎこちない。

 

不思議でした。書けるはずなのに、筆が進まない。

書いては修正して、アドバイスをいただく度に修正を繰り返す。

そんな修行のような期間を経験しました。

 

今は、少しずつその媒体によっての違いを認識して、日々精進しながら書き進めています。

このように、実は「書く」といっても様々で、それぞれの感覚を身につけていく作業の積み重ねなのです。

 

書くことは脳の一部を吐き出すこと

僕にとっての「書く」は、まるで脳の一部を吐き出しているような、自分自身の考えをまとめてというより、思考をそのまま貼り付けているような、そんな行為です。

 

Twitterは140字だからこそ伝えられることがあります。

Instagramは写真がたくさん載せられるからこそできることもあります。

記事は伝えたいことと着地を明確にした広告の文章になるし、小説は僕の頭の中にある世界をできるだけ精密に言葉に置き換えているだけ。

 

そしてブログは、僕自身についてをじっくり書ける。

 

起こった出来事を呟いたり、撮った写真を載せたり、そういった刹那的なものではなくて。

小説のように架空の世界の話でもない。

 

今や過去の僕自身や、これからの僕の想いを、最も適切に残せるのがブログなんじゃないかなと思って。

 

いくつも同じことを書いているのではありません。

それぞれのツールで、それぞれの僕を出しているだけなのです。

 

絵を描いていたら絵画や漫画、アニメ制作に手を出していたかもしれません。

楽器をやっていたらバンドか吹奏楽の道に進んでいたかもしれません。

声に自信があったら、歌手や声優にもチャレンジしていたかもしれません。

 

全部、自分を出している人たちばかりです。

全部、自分を表現している人たちです。

 

僕にとって「書く」ことは、脳内を吐き出すこと、自分の一部を表現していること、です。

 

物書きとか言いながら。

パラレルワーカーなんて格好つけながら。

 

結局は、表現者として生きているのです。

 

『ここが人生のブルペン

ブログのタイトル名にしました。変わってますよね。

 

大成する人々はきっと、ブルペンで来たる時に備えて練習と準備に励んでいるような、そんな期間があったのではないでしょうか。

それぞれの人生の準備期間に、少しでも寄り添えるように。

少しでも良い状態で、試合という人生の本番の舞台に送り出せるように。

 

そして、これから準備期間を迎えるであろう人たちにも。

 

地道な努力を続ける挑戦者の、心の力づけになるようなブログにします。

 

さて、次はそんな僕という人間を、もう少し分解してみます。

『野田村悠加』という生き方は、まるで一つの物語のような

はじめまして。

野田村悠加と申します。

 

​新たに発信できる媒体を増やそうと、この度ブログを開設する運びとなりました。

 

ここ一年ほど、何かと文章を綴る機会を増やしてきましたが、媒体ごとにいろいろな人たちと関わり合えることは本当に面白いなと感じてきました。

 

そうしてこれから出会っていく、どこかの誰かに届けられるものを、より増やしたいなと。

 

そんなことを思っております。

 

物書きとして。
ビジネスパーソンとして。

 

挑戦者として。

 

そんな僕の半生を、日々の想いを、そしてこれからの未来を、綴っていきます。

 

生い立ちとかルーツとか

生まれは滋賀県栗東市というところです。

www.city.ritto.lg.jp

 

当時はまだ栗太郡栗東町でしたが、9歳の頃に栗東市に変更になりました。

地味に、21世紀初の「郡」消滅だったそうです。

引っ越してもいないのに住所が変わるという、子どもながらに印象的な出来事でした。

 

まあ大概田舎な場所ですが、国道1号線と7号線が入り混じる近くということもあり、国道沿いだけは割と車通りが多かったです。

 

これは実家の前の田んぼです。

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雪景色。

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幼少期はこんな景色が広がる町で過ごしました。

 

野球を始めたのは小学二年生の頃です。
当時の憧れは松井秀喜選手。
今でも野球人としてだけでなく、人として尊敬している中の一人です。

 

その後、小学五年生の頃には担任の先生からの勧めで学習塾に入りました。

 

中学受験、なんていう選択肢はそもそも知らなかったし、何より自分がやることになるとは思いもよりませんでした。

 

詳しくはこれから書いていきますが、中学、高校とだいたい野球と勉強で過ごしてきました。

 

一つ言えるのは、制服も校則もなく、非常に自由な学生生活を過ごさせてもらったということ。

 

自治自立の精神。
良心教育。

 

母校の創立者は偉大でした。

その精神は、今も根付いているような気がします。

 

何に縛られることもなく。

主体性を尊重してくれる。

自分たちで、自分たちの意向を決める。

そんな学生生活を送りました。

 

「良心を手腕に運用する」

同志社という学び舎に中学生で入ってから、ずっとそう教わってきました。

www.doshisha.ac.jp

 

大学では体育会硬式野球部ながら、学部の成績上位10%に位置していたなど、比較的真面目に過ごしてきた学生時代でした。

 

何者になろうとしていたのか

大学二回生の頃に、人生で最も好きな小説に出会いました。

その瞬間、すごいという感情を超えて、「なりたい」と思うようになったのです。

 

www.amazon.co.jp

 

こういった物語を世に放って、多くの人の心を動かしたい。

 

そう思っていましたが、普通に就活しました。

そして唯一受かった会社へ入社します。

 

小説は、仕事が終わってからや土日に書けば良いだろう、と思っていました。

 

仕事は親の影響で医療関係の業界へと飛び込みます。

一生懸命頑張りました。

新人賞という入社二年目以内の賞を獲りたくて、たくさんの方に協力いただきながらも一つ一つ仕事を覚えていきました。

 

合間の時間は、結局アニメを観たり、ゲームしたり、本を読んだりしていました。

書くことは、あまりしていなかったのです。

 

なんだかんだ休んでいたり、娯楽に走ったり、そうそう上手くはいきません。

 

そうこうしているうちにも日々は過ぎ、仕事も進み、新人賞はありがたいことにいただくことができました。

そうして、3年目から次の目標が決まります。

 

「売上〇〇万円」

そう設定されました。

 

さて、ここが大きな転機の始まりです。

 

仕事は順調でした。

特に不満もなく、いい人にも恵まれて、問題は別段ありませんでした。

 

ただ、日に日になんとも言えない想いが膨らみます。

 

野球をやっていた頃のような、野球も勉強も、バイトも本もアニメも、全部やってた頃の自分のような、燃えている感覚というか、日々やりきっている感覚というか、そういった曖昧な想い。

 

野球に代わるのが仕事になると思って社会人になって、二年が経とうとしていました。

 

物語は書けているだろうか。

書くに相応しい経験をしているだろうか。

仕事では何を目指しているのだろうか。

 

作家になるんじゃなかったのか?

 

僕は何者になろうとしているのだろうか。

 

本当はどうなりたいのだろうか……。

 

その想いを脱する大きなきっかけは、とある出会いでした。

 

本当はどうなりたいのか

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まあ、だいたいのきっかけは出会いだと思いますが、上京してきて一番衝撃的だった出会いを果たします。

 

東京に、中高大の先輩がいました。

その先輩のおかげで、いろんな場に連れて行ってもらいます。

 

基本的に休日は家に引きこもっていた僕を引っ張り出してくれた恩人です。

 

結果的に、僕はたくさんのことを知ることになります。

 

こんな仕事をしている人がいるんだ。

こんな考え方を持っている人がいるんだ。

こんな生き方をしている人がいるんだ。

 

僕にはまだ、こんなにも選択肢に溢れているんだ。

 

世界が広がりました。

知っている世界がいかに矮小なものだったのか、いかに自分の枠外の世界が広がっているのかを体感しました。

 

「本当は、どうなりたいの?」

訊かれて、何も答えられない自分がいました。

 

まずは考えて、知る努力をしました。

 

そして、選びました。

 

こうしようと。

こうなろうと。

 

それから、会社の仕事に加えていろいろなチャレンジを始めます。

 

本を読みました。

人からたくさん学びました。

実践することで体感しました。

 

多くの人と向き合いました。

自分自身ともものすごく向き合いました。

 

少しずつ、様々なプロジェクトに参加し始めました。

できることが増えてきました。

新たな仕事も、たくさん取り組むようになりました。

 

仕事といっても収入が発生するものではありません。

パラレルワーク、という働き方なのですが、おそらく追々書いていきます。

 

あとは、なんの巡り合わせだったのか、2020年10月に電子書籍を出しました。

sutekistore.theshop.jp

 

「作家×パラレルワーク」

 

作家だけでなく、たくさんの仕事や働き方を通して、伝えられることや届けられる想いを増やす。

 

携わる物事は増えてきたので、いよいよ今度は自分の生活を変えるチャレンジです。

 

目下の目標は、カレンダーの色をなくすこと。

 

金曜だから、月曜だから、みたいな本来なかったものに左右される生活から脱する。

つまるところ、脱サラですね。

 

これからもたくさん学んで、実践して、人と出会い、そして多くの同志と共に、変化していければいいなと考えています。

 

このブログでは、こうした僕自身の変化のきっかけや経験、感じている想いなどを記していければと思います。

 

そして、綴るすべてを通して一つの物語となるように。

まるで、僕の人生そのものを一冊の本にするかのように。

 

誰かの心を揺さぶるような物語になるよう、今日一日を地に足つけて生きていきます。

 

新たな発見や知見があったり、様々な想いを感じたりしていただけると嬉しいです。

 

僕という人間の軌跡を。これから切り拓く道を。

他の誰でもない「野田村悠加」という生き方を。

 

人生が大成する準備期間である、今この時期から。

 

紡ぎます。